所属 | 川崎フロンターレ |
---|---|
前所属先 | 大宮アルディージャ |
背番号 | 41 |
ポジション | MF |
生年月日 | 1986年06月13日(38歳) |
身長 / 体重 | 173cm / 70kg |
出身地 | 兵庫 |
所属 | 川崎フロンターレ |
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前所属先 | 大宮アルディージャ |
背番号 | 41 |
ポジション | MF |
生年月日 | 1986年06月13日(38歳) |
身長 / 体重 | 173cm / 70kg |
出身地 | 兵庫 |
家長 昭博(いえなが あきひろ、1986年6月13日 - )は、京都府長岡京市出身のプロサッカー選手。Jリーグ川崎フロンターレ所属。 ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。元日本代表。愛称はイエ、イエナガ。
2018年のJリーグ最優秀選手賞受賞者。
来歴
プロ入り前
地元長岡京市の長岡京サッカースポーツ少年団からガンバ大阪ジュニアユースに入団。ガンバ大阪ユースチームではエースとして活躍し、高校2年時にトップ昇格、高校3年時には完全にユースを卒業し、2004年7月にガンバ大阪とプロ契約を結ぶ。同年6月26日のアルビレックス新潟戦でJリーグ史上初となる2種登録選手によるデビュー戦初得点を挙げた。
ガンバ大阪
当時イビチャ・オシムが指揮を執ったA代表に選出されたが、好不調の波が激しく G大阪では遠藤保仁や二川孝広らの牙城を崩せずなかなか定位置を掴めずにいた。2008年に出場機会を求めて大分トリニータへ期限付き移籍したが、2月の実戦形式の練習中に、右膝前十字靭帯損傷により全治6ヶ月の重傷を負った。大分でのリーグ戦初出場は9月27日・第27節横浜FM戦となった。同年12月、入団テストを兼ねてイングランド・フットボールリーグ・チャンピオンシップ(2部リーグ)のプリマス・アーガイルFCの練習に約2週間参加。クラブ首脳陣から高い評価を受け獲得を検討されたが、翌2009年1月に労働許可証取得の申請が却下され、プリマスへの移籍は消滅 した為、大分への期限付き移籍期間を1年間延長した。
怪我が癒えた2009年シーズンも序盤はサブメンバーであったが、相次ぐ主力の怪我によりスタメンでの試合出場機会が多くなった。ランコ・ポポヴィッチの監督就任以降は、それまでのレギュラーであった鈴木慎吾に代わり左WBとして、その後高橋大輔が左WBとなると、ボランチとしてレギュラー起用された。
2010年1月8日、セレッソ大阪へ期限付き移籍し、自身最多となるリーグ31試合4得点10アシスト で、C大阪のACL出場権獲得に貢献した。
マヨルカ(スペイン)
2010年12月16日(当時)、ガンバ大阪からリーガ・エスパニョーラのRCDマヨルカへ完全移籍。2015年までの複数年契約を締結した。マヨルカとの契約解除に必要な違約金として、当時のレートで1800万ユーロ(約20億円)に設定された。マヨルカ入団から1カ月ほどは、ヨーロッパ外国籍の選手保有制限により登録されなかった。冬季移籍期間中に放出したブラジル人DFラチーニョに代わり、2011年2月1日に登録名「AKI」で登録。2月5日、第22節CAオサスナ戦でトップ下で出場しリーガエスパニョーラデビュー。3月13日、レバンテUD戦でトップ下として移籍後初先発を果たした。4月9日のセビージャFC戦では、リーガ初得点を決めた。4月24日のヘタフェ戦では移籍後2得点目となるヘディングシュートを決めた。6月のキリンカップでは、G大阪時代の2007年以来、約4年ぶりの代表復帰を果たした。しかし、2011-12シーズンはホアキン・カパロス監督の構想外となる。前半戦のリーガ・エスパニョーラでの出場は僅か4試合に留まった。
蔚山現代(韓国)
2012年2月、出場機会を求めKリーグ・蔚山現代FCへ1年間の期限付き移籍。登録名は引き続き「아키」(アキ)となった。蔚山ではリーグ戦12試合に出場し、1ゴールを記録した。
ガンバ大阪復帰
2012年7月30日、古巣のG大阪へ期限付き移籍。加入当初は、途中出場がほとんどであったが、シーズン終盤はスタメン起用され途中加入ながらG大阪在籍シーズンでは最多の得点を記録した。しかしチームは成績不振で史上初のJ2降格となってしまった。
2013年、複数のJ1クラブからオファーが届いたがG大阪と契約を延長した。2013年6月、期限付き移籍満了により退団した。
マヨルカ復帰
2013年7月に約1年半ぶりにマヨルカに復帰し、2013-14シーズンはリーグ戦7試合に出場した。
大宮アルディージャ
2014年1月、大宮アルディージャへ完全移籍。J1序盤戦はゴールを量産し、第3節川崎戦であげた加入後初のゴールは、J1通算17,500ゴールとなった。シーズン中盤以降はゲームキャプテンを任されるなど移籍1年目にして存在感を見せたが、それと反比例するようにチームは降格圏に低迷。終盤も低調なチームの中で気を吐いたが状況は変わらず。チームはJ2リーグへ降格することとなった。シーズン終了後、ヴィッセル神戸や古巣のG大阪などが獲得に動いたが大宮と契約を延長した。
2015年は2年ぶりにJ2の舞台で戦うこととなったがポゼッションサッカーの攻守の要としてフォワード登録でパサーを兼任する形が多く、チーム2位の11得点を挙げた。第29節のアウェイ愛媛戦においてスポンサー看板を蹴ったことで2試合の出場停止を受けたこともあったが、同年の6月と7月にはJリーグ月間MVPを史上初めて2カ月連続で獲得している。勝利で自力優勝が決まるホーム最終戦の第41節大分戦では、スコア2-2の状況から家長自身のPKにより逆転し、クラブ初となるJ2優勝および1年でのJ1復帰に貢献した。
2016年もチームに残留。チームは堅守速攻のスタイルへと転換するが引き続きチームの攻守の要としてフォワード登録でパサーを兼任する形が続いた。シーズン中盤は怪我を発症するが11得点を記録。J1で2桁得点を記録したチーム初の日本人選手となり、チームの堅い守備やカウンターアタックの成果もあってチームはクラブ史上初の年間5位を記録し、チームを押し上げる原動力となった。
川崎フロンターレ
大宮で絶対的な居場所を築いた家長であったが、30歳を迎えて「再び挑戦したい」という思いから 2017年、川崎フロンターレに完全移籍で加入。シーズン開始前の怪我で出遅れたものの、徐々にチームにフィット。7月12日、天皇杯3回戦のザスパクサツ群馬戦でヘディングによる移籍後初得点を決めた。8月13日、第22節の鹿島アントラーズ戦でリーグ戦初得点を決めた。最終節、第34節・大宮アルディージャ戦では、小林悠の3得点のうち2得点をアシストし、勝利に貢献、最終節での逆転J1優勝、川崎のJ1初優勝に貢献した。オフには古巣のG大阪から獲得オファーを受けるも最終的には川崎への残留を決断した。
2018年はシーズンを通じて力を発揮し、出場時間は攻撃陣最多の2745分間(32試合)を記録。6得点7アシスト、6得点の内半数は最終盤の第30節から第32節の3戦連続で得点した。中村憲剛からは「苦しい時、突破口を切り開くのはアキの左足」と語られるなど川崎のリーグ2連覇に大きく貢献し、最優秀選手賞(MVP)及びベストイレブンを受賞した。
2019年も活躍を期待されたが、JリーグMVPの重圧から本来の活躍が出来ず、前年より出場時間を減らし、リーグ戦得点もJリーグでは2008年以来11年ぶりに無得点に終わった。
2020年、4-3-3の右ウイングのポジションを確立すると、プレーに輝きを取り戻した。11月25日、リーグ第29節の古巣ガンバ大阪戦でハットトリックを達成し、チームを2年ぶり3度目のJ1優勝に導いた。最終節の柏レイソル戦でも2ゴールを挙げ、リーグ戦での年間ゴール数を11とし、これまでの自身が持つリーグ戦での最多ゴール記録に並んだ。
人物
力まず脱力したプレースタイルが特徴的であり、滅多に感情を露わにしない。フォワードと司令塔を兼任してプレーすることが多く、高速ドリブル、強靭なフィジカル、相手選手を回避する身軽さと機敏性、ハイクオリティの技術による軽いタッチのシュートなどが持ち味。強靭なフィジカルを持つが、ハードな筋力トレーニングなどは行なっていなく、実践を想定したトレーニングを行なっている。
試合中に心がけていることは平常心。
好物はバナナで、試合前後にエネルギー源として必ず摂る。その他の好物は生姜焼きと唐揚げで、肉や魚など何でも食べるが、大食いではなく食事量が多くない。
ガンバ大阪ユースの出身で、ユースチーム在籍中にトップ昇格を果たしている。ユース在籍中の昇格は稲本潤一、新井場徹に次いでクラブ史上3人目。
本田圭佑、東口順昭とはG大阪ジュニアユース時代の同期。本田とは小学校時代に対戦し、一緒にプレーしたいと思ったことがG大阪ジュニアユース入りを選んだ理由と話している。2人は共に攻撃的なポジションの選手であり、生年月日と利き足が同じである。1年後輩に当たる安田理大のブログによれば、G大阪ジュニアユース時代の家長と本田はよく喧嘩をしていたとのこと。2018年のJリーグアウォーズでは、最優秀選手賞の受賞セレモニーの際に、サプライズで本田からのビデオメッセージが公開された。
家族構成は、雑誌の専属モデルの妻、長男、次男、長女、猫のジェンバ・ジェンバ。引用元:wikipedia
2021年2月3日