所属 | 大分トリニータ |
---|---|
前所属先 | - |
背番号 | - |
ポジション | 監督 |
生年月日 | 1971年04月18日(53歳) |
身長 / 体重 | |
出身地 | 鹿児島 |
所属 | 大分トリニータ |
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前所属先 | - |
背番号 | - |
ポジション | 監督 |
生年月日 | 1971年04月18日(53歳) |
身長 / 体重 | |
出身地 | 鹿児島 |
片野坂 知宏(かたのさか ともひろ、1971年4月18日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはディフェンダー。Jリーグ・大分トリニータ監督。
来歴
選手として
鹿児島市錦江台小学校、和田中学校出身 鹿児島実業高等学校から1990年、マツダSCへ入団。当初はサテライトチームであるマツダSC東洋で鍛えられると、左SBとして頭角を現す。1994年のサンフレッチェ広島のステージ制覇にも貢献した。スチュワート・バクスター体制では不動のレギュラーだったが、1995年に就任したビム・ヤンセン体制では路木龍次に取って代わられるようになり、あまり評価されなかった。同年シーズン途中に柏レイソルへの移籍を決断。柏では不動の左サイドバックとして活躍し、1999年まで在籍した。
2000年、大分トリニータに移籍。2000年8月よりガンバ大阪に期限付き移籍、2001年も期限付き移籍期間を延長した。2002年はベガルタ仙台に期限付き移籍、2003年に大分に復帰したが、同年限りで現役を引退。
指導者として
引退後は大分トリニータのスタッフに転進。2005年まではスカウトを経験し森重真人などを入団させ、2006年は大分U-15コーチを務めた。同年、JFA 公認S級コーチライセンスを取得。
2007年からはガンバ大阪のトップチームのコーチ(サテライト監督兼任)を3年間務めた。
2010年、サンフレッチェ広島のコーチに就任。15年ぶりの古巣復帰となった。
2014年、G大阪のヘッドコーチに就任。広島時代の2012年、2013年、G大阪での2014年と、3年連続でリーグ優勝を経験した。
大分トリニータ監督時代
2016年より、同年J3へ降格した大分トリニータの監督に就任。U-15コーチを務めていた2006年以来の大分で、初の監督業挑戦となった。
大分は前年のJ3降格の影響より昨季の主力が多数流出した為、「結果(J2復帰)」と「育成」の両立を求められることになった。その中で開幕戦・長野戦では分析の結果、攻略に適した人材と判断した ルーキーの岩田智輝、吉平翼を先発に起用。岩田は以後先発に定着し、その後も怪我人や戦術変更をきっかけに福森直也や姫野宥弥を先発に抜擢し大きな成長を促した。一方で昨年飛躍した4年目の松本昌也と2年目の鈴木義宜に対しては中心選手としての役割と責任を与えることで、チームに欠かせない存在に成長させた。
前半戦を昇格圏外の3位で折り返し、第19節では首位・栃木との直接対決に敗れ、勝ち点差が9にまで広がったが、以降は失点リスクを抑えた戦い方に変更した結果、第20節から最終節まで5連勝を含む9勝1分1敗の成績を残した。同期間で栃木が4勝5分2敗と勝ち点を伸ばせなかったこともあり第29節で首位を奪取し、逆転でJ3優勝を達成。大分を1年でJ2復帰に導いた。
2017年はJ2残留を視野に目標勝ち点を45に設定。前年と同じくパスサッカースタイルを掲げる中でよりボールを握る為、システムを前年の4バックから3バックへ変更したが、時には相手との力関係を判断し守備重視の4バックへの変更もするなど割り切りも見せた。目標以上のペースで勝ち点を積み上げ、第30節・山口戦での勝利により目標勝ち点の45に12試合を残して到達した。最終的に勝ち点は64まで伸ばし9位でシーズンを終えた。
2018年は勝ち点70・J1参入プレーオフ圏内(6位以内)を目標に設定。前年基本システムとした3-4-2-1を継続しながらも得点力の向上を図る為、ボールを回しながら相手の隙を探す作業に特化。プレスのかけ方や、ポジション取り、ボールを奪った後の動きなどを、具体的なアクションを交えながら事細かに選手に示した。選手起用については実力が伯仲した選手が多く集まった事を生かし、ゲームプラン・コンビネーション・コンディションの3つの基準の元、対戦相手毎にメンバーを入れ替えるという手法をシーズン通して貫いた。その結果、チーム全体の競争力・モチベーションの向上をもたらし、4選手が2ケタ得点を達成するなどリーグ最多となる76得点を記録。シーズン成績も勝ち点76の2位と目標を上回る自動昇格圏入りを果たし、大分を6年振りのJ1復帰へと導いた。シーズン終了後には、J3からJ1までチームを引き上げた事などが評価され、J2優秀監督賞を受賞した。
2019年は多数の記者・スポーツライターからJ2降格候補と目された中で、目標に掲げた「勝ち点45」を3試合残して達成するなど、一度も残留争いに巻き込まれることなく9位でシーズンを終えた。この事を評価されシーズン終了後にはJ1優秀監督賞を受賞、2年連続の表彰となった。
エピソード
2018年8月18日、J2第29節の東京V戦にて、試合開始5分ごろに声が嗄れ、試合後の会見にガラガラ声で臨むという一幕があった。
その状況を見た大分サポーターがTwitterにて8月21日に「浅田飴さん、片さんの喉を守ってあげて」というツイートをすると、これに浅田飴の公式アカウントが反応。その縁により翌日には大分FC(大分トリニータ運営会社)の営業スタッフが浅田飴本社に挨拶に出向く事となった。8月25日に浅田飴より主力商品の薬用のど飴が大分FCに差し入れされ、同日行われた徳島戦では片野坂は終始のど飴の缶ケースを手に持ち、ずっと飴を舐めながらピッチ脇で指示を送った。
試合後の囲み取材にて浅田飴について尋ねられると、「おかげさまで最後まで声が嗄れることなく指示を出すことができて感謝しています。浅田飴、もう手放せなくなりました。」とコメントした。引用元:wikipedia
2021年2月3日