所属 | 大分トリニータ |
---|---|
前所属先 | 湘南ベルマーレ |
背番号 | 23 |
ポジション | MF |
生年月日 | 1988年07月08日(36歳) |
身長 / 体重 | 173cm / 68kg |
出身地 | 神奈川 |
所属 | 大分トリニータ |
---|---|
前所属先 | 湘南ベルマーレ |
背番号 | 23 |
ポジション | MF |
生年月日 | 1988年07月08日(36歳) |
身長 / 体重 | 173cm / 68kg |
出身地 | 神奈川 |
高山 薫(たかやま かおる、1988年7月8日 - )は、神奈川県川崎市高津区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・大分トリニータ所属。ポジションはミッドフィールダー。
来歴
プロ入り前
6歳の時に幼稚園の先生に誘われたことがキッカケでサッカーを始めた。小学6年生の時にはサッカーの川崎市選抜にも選出されている。
中学・高校時代は、同期の永木亮太と一緒に川崎フロンターレの下部組織に在籍していたが、トップチームに昇格することは出来ず、専修大学に進学。大学2年時に「関東大学選抜B」に選出、大学4年時には神村奨と2トップを組んで12得点を挙げ、2010年の関東大学サッカーリーグ2部での最多得点者となった。
プロ入り後
2011年に湘南ベルマーレに加入。大卒1年目ながらリーグ戦35試合に出場し、チームトップの9得点を挙げる活躍を見せた。
2012年は、同年より監督に就任した曺貴裁の下、「動き出しの早さで相手より前を取れるという薫のよさがチームに活かされたらいい」という意図により、3-4-3の左ウイングバックに起用された。リーグ戦38試合で6ゴール・4アシストの活躍を見せ、チームのJ1復帰に大きく貢献した。2013年もリーグ戦でチームトップタイの4得点を挙げるも、チームはJ2降格となった。
2014年、柏レイソルに完全移籍。柏では、湘南時代とは逆の右サイド や、3-6-1の2シャドーの一角 としてもプレーした。
2015年、湘南に完全移籍で復帰。同年は主戦場のサイドでは無く主にシャドーでプレー。出場停止1試合を除く全試合に先発出場を果たしJ1自己最多の7得点をマークした他、Jリーグが計測したトラッキングデータでは走行距離でリーグ5位、スプリント回数ではリーグ2位を記録し、「走るベルマーレ」の象徴としてチームの8位進出に貢献した。
2016年は永木亮太、秋元陽太、遠藤航らが移籍した中で残留を決断し、曺からの推薦によりキャプテンに就任。以後3シーズン連続でキャプテンを務めた。前年同様リーグ戦33試合(内1試合は途中出場)に出場したが、チームはシーズン17位となりJ2降格となった。
2017年は3月25日のJ2第5節・千葉戦で全治8ヶ月・前十字靭帯損傷の怪我を負い、シーズンの大半を棒に振った。第40節・福岡戦にて交代出場により公式戦復帰を果たした。
2018年は先発から外れる機会が増えたが、同年のJリーグカップ決勝・横浜FM戦では1点リードで迎えた後半32分に投入されると、身体を張って相手の攻撃を防ぎ優勝に貢献。表彰式ではチームメイトに背中を押され、優勝カップを掲げた。
2019年より大分トリニータに完全移籍。
人物・エピソード
名字については湘南公式HPからの内定時のリリースには「髙山」と梯子高が使用されていたが、それ以降の各クラブ並びにJリーグのリリース・プロフィールなどでは「高山」表記が使用されている。
父親は大分県中津市出身で、2019年春から中津市の祖母の家へ両親が移住している。移住の3、4年前から決まっていたことであったが、同年高山が大分トリニータへ移籍することとなり「運命的なものを感じた」と語っている。
湘南時代にチームメイトであった永木亮太とは、川崎フロンターレのジュニアユース時代の同期であり、湘南在籍時は永木や猪狩佑貴と一緒に行動していたという。
川崎フロンターレ戦では2014年時点で通算5試合5得点と、川崎キラーである。自身のJ1初ゴールや、柏での移籍後初ゴールを決めた相手も川崎であった。
目立つことが好きな性格である。兄の影響もあってお洒落にも気を配っており、服を買うことが趣味の一つであるという。音楽やコーヒーにもこだわりを持っている。
小学6年生の時に憧れていた選手は西澤明訓であり、当時は彼の真似をしてユニフォームのエリを立てていたという。
山本リンダの「どうにもとまらない」を自身のテーマ曲にしており、柏レイソルでの彼のチャントに同曲が使われた際は、本人も「歌は相当良いです。たまらない。」と発言している。引用元:wikipedia
2021年2月3日