権田 修一

所属
前所属先 ポルティモネンセSC/ポルトガル
背番号 37
ポジション GK
生年月日 1989年03月03日(35歳)
身長 / 体重 187cm / 84kg
出身地 東京

権田 修一の情報

権田 修一(ごんだ しゅういち、1989年3月3日 - )は、東京都世田谷区出身のプロサッカー選手。J1リーグ・清水エスパルス所属。ポジションはゴールキーパー。日本代表。

妻はネイリストの篠田裕美。

来歴

プロ入り前
バスケットボール選手の両親を持つスポーツ一家で育つ。3、4歳のときに「サッカーをやらせると成長にいい」と聞いた母親に勧められたのがサッカーを始めたきっかけであった。小学校時は川崎市内のサッカークラブに所属していたため、GKとして川崎市選抜・神奈川県選抜に選ばれていた。当時のお気に入りはアメリカ代表のトニー・メオラ。ユースチーム加入時には、横浜F・マリノスと川崎フロンターレのユースチームにも合格し、さらに神奈川県選抜時の監督から湘南ベルマーレへの勧誘を受けていたが、小学校時に近所のサッカースクールにFC東京がコーチングスタッフを派遣しており、権田が浅野寛文GKコーチの指導に好印象を受けた事と、そのスクール生には観戦チケットがプレゼントされ、駒沢陸上競技場にてJ2時代のFC東京の試合を生観戦したことなどが決め手となり、FC東京U-15への入団を選択した。2003年のクラブユース選手権で優勝し日本一を経験。

FC東京
2005年10月から2種登録選手としてトップチームの練習に帯同し始め、2007年からは国士舘高校に在学しながらFC東京トップチームに正式に昇格となった。FC東京初の「平成生まれの選手」でもある。同年シーズン終盤にはサブとして公式戦ベンチ入りも果たした。

ながらく塩田仁史の控えとして過ごしていたが、2009年1月下旬に塩田が虫垂炎及び麻痺性腸閉塞による長期離脱を強いられ、更に阿部伸行もコンディション不良が目立ったことから、権田が開幕スタメンに抜擢され公式戦デビューすることとなった。その開幕戦ではアルビレックス新潟に4失点、第2節も浦和レッドダイヤモンズに3失点で開幕2連敗と苦いデビューとなったが、第3節でJ1初昇格のモンテディオ山形に完封勝利して以降は落ち着いたプレーを取り戻し、シュートに対する鋭い反応でチームに貢献。出場時間が規定に達しプロA契約選手となった。実質のデビューシーズンであったが、年間15完封 というJ1リーグの個人記録(タイ記録) を達成し、チームの5位躍進に貢献。川崎フロンターレとのナビスコカップ決勝でもフル出場。チーム5年ぶりの優勝に貢献するとともにプロ初タイトルを獲得。無失点に抑え、当時の鬼武健二チェアマンからはMVP級の活躍だったと評価された。

2010年も開幕から引き続き正GKとしてプレーしていたが、勝ちきれない試合が多く8~9月にかけてはわずか勝ち点2しか挙げられず未勝利に終わるなど低迷。最終節では既に降格が決まっていた京都に敗れJ2降格が決まった。

J2に降格して迎えた2011年は若手の代表として 副将を務めた。シーズン当初はレギュラーで出場していたが、ロンドンオリンピック予選の招集を機に 塩田にレギュラーを奪われ、A代表選手がクラブでは控えという状況にもなった。シーズン終盤に差し掛かり再び正GKの座を奪取。塩田とのポジション争いは1年を通して続いた。J2では力の差を見せつけ、2位に大差をつけて1年でJ1に復帰した。

J1に復帰した2012年は、新たに就任したランコ・ポポヴィッチ監督から「日本でNo.1のGK」と全幅の信頼を寄せられ、レギュラーを確保。しかし、塩田との間に差は無いとも評され、2013年の天皇杯では塩田の好守でチームがベスト4に進出する中、出場機会は無かった。また、2012年12月にドイツ・シュトゥットガルトとイタリア・エラス・ヴェローナの練習に参加した。

2014年は高いセーブ率で 失点の大幅減に成功。2015年より塩田の退団に伴い背番号を「1」へ変更。1stステージでは全試合フル出場を続けたが、同年7月にオーバートレーニング症候群を発症し、離脱。3ヶ月ほどで復調の兆しを見せたが、戦列には復帰できなかった。

SVホルン
復活を期すクラブの了承の下、本田圭佑の熱望を受けて2016年1月にオーストリア・SVホルンへ期限付き移籍。初先発となった3月4日、第17節SKラピード・ウィーンⅡ戦で完封勝利したが、続く同月11日第18節SVオーバーヴァルト戦で右脛骨を骨折。2015-16シーズン中の回復は間に合わず、同シーズンの出場はこの2試合に留まったが、権田はホルンの日本人新監督濱吉正則の指導に戸惑うオーストリア選手との橋渡し役を務め 信頼を集めた。

2016-17シーズン第6節ウィーナー・ノイシュタット戦で5ヶ月ぶりに復帰した。リーグ中断期間にあたる2016年12月でSVホルンとのレンタル契約が終了したためFC東京にレンタルバックした。

FC東京とは2017年末までの契約を残していたが、2017年1月、ヨーロッパでのプレーを希望して契約解除を申し出た。クラブは権田の意向を尊重する方針だったため合意解除となった。

サガン鳥栖
ヨーロッパでの移籍先が見つからず、2017年2月に帰国。夏の移籍期間まで無所属となることを覚悟していたが、サガン鳥栖から熱意あるオファーが届き、同クラブへ移籍加入。古巣との初対戦となったJ1第5節のFC東京戦では、古巣サポーターへ不義理な移籍を謝罪し、感謝を述べた。

2018年シーズン、チームは残留争いに巻き込まれるもののリーグ戦34試合にフル出場し、ゴールマウスを守りチームのJ1残留に貢献した。シーズン終了後に行われたチームメイトによる投票により、2018年のチームMVPに選出された。

ポルティモネンセSC
2019年1月29日、ポルトガル1部のポルティモネンセSCへ移籍する事を発表した。5月17日、最終節のSCブラガ戦で移籍後初出場を果たした。

清水エスパルス
2021シーズンより清水エスパルスに期限付き移籍。 背番号は37に決まった。

日本代表

ユースではU-17日本代表に選ばれAFC U-17選手権2004で日本のゴールマウスを守った。

2007 FIFA U-20ワールドカップには香川真司と共に飛び級で選出されたが、メンバー発表後に後十字靭帯を損傷し、出場を辞退。

2008年、U-19日本代表の主将として2009 FIFA U-20ワールドカップアジア地区予選を兼ねたAFC U-19選手権(サウジアラビア)に臨んだ。準々決勝の韓国戦では好セーブを連発したものの 0-3と完敗。結果として日本が7大会連続で出場し続けていたU-20ワールドカップへの出場権を取り逃すという苦い経験をした。試合後には悔し涙を流しながらもTVインタビューに対応し、主将として責任感の強い部分を見せた。この年、FC東京は権田との契約を複数年延長し、将来のチームの大黒柱候補としての期待の大きさを伺わせた。

2009年12月21日にはアジアカップ最終予選・イエメン代表戦に向けたA代表に初招集され、2010年1月6日の試合では先発出場を果たし国際Aマッチデビューを飾った。

2010年9月30日には、アルベルト・ザッケローニ新監督の日本代表にも選出された。ここでの出場機会は得られなかったが、その後、ザッケローニはインタビューにおいて「たとえば権田。FC東京でプレーする1990年生まれのGKで、日本代表では第3GKだが、素晴らしい将来性がある。」と、大きな期待を示し、翌年開催のAFCアジアカップにも第3GKとして招集された。

アジアカップ以後は世代別代表を優先し、副将として チームのまとめ役を担った。2012年7月2日、ロンドンオリンピックに臨むU-23日本代表に選出された。本大会ではグループリーグでのベストGKとの声が挙がる活躍で、4試合連続無失点を記録し ベスト4入りに貢献。しかし、準決勝と3位決定戦では自身の判断ミスも重なって 連敗し44年ぶりのメダル獲得を逃した。

2014年6月に開催された2014 FIFAワールドカップにも第3GKとして招集されたが、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。

2015年3月、Jリーグでの出色の出来を認められバヒド・ハリルホジッチ新体制においてA代表復帰。同月の親善試合チュニジア代表戦で完封勝利を飾った。同年7月には東アジアカップ2015の代表メンバーに選出されたが、コンディション不良(後述)により辞退。

2018年、森保一新体制の初陣であるキリンチャレンジ杯において、3年ぶりに招集された。10月12日に行われたパナマ戦に出場し、無失点に抑えた。

2019年、AFCアジアカップ2019では、ターンオーバーで挑んだグループリーグ1試合を除く6試合にレギュラーとして出場。大会当初は鳥栖所属でレギュラー唯一のJリーガーだったが、決勝戦の前にポルトガルのポルティモネンセへの移籍を発表し、これにより決勝戦のカタール戦では、日本代表史上初のスタメン全員海外組となった。

エピソード

弟・権田隆人 は、B3リーグ・東京サンレーヴスなどに所属したバスケットボール選手。
好きなサッカー選手はデンマークのピーター・シュマイケル、「守りながら常に攻撃のことを考えている」ドイツのマヌエル・ノイアー、ビルドアップに長けるマルク=アンドレ・テア・シュテーゲン。目標にしている選手はオーストリアのロベルト・アルマー。ホルンではスロベニア代表GKコーチニハード・ペコヴィッチの指導を受けており、兄弟子に当たる同代表GKサミール・ハンダノヴィッチ及びヤン・オブラクを参考にしている。

「(身体が資本の)サッカー選手として、何でも食べられるようにしておくことは大切」と語るが、ニンジンが苦手。

2014年まで通訳として日本代表に帯同した矢野大輔は、権田のフォアザチームの姿勢を認め、円陣を組む際には権田の隣に入ることを験担ぎにしていた。

通常、日本代表では一度につき3名のGKが招集されるが、2015年当時は4名が招集されていた。しかし公式戦でベンチ入りできるGKは3名なので一人はベンチ外になり、同年6月の2018 FIFAワールドカップ・アジア2次予選シンガポール代表戦では権田がベンチ外になった。権田はチーム、個人とも好調で自信と手応えを持っていただけに、この扱いにショックを受け、「上り詰めるための方法が分からなくなって(権田談)」FC東京のマッシモ・フィッカデンティ監督とも衝突したという。権田はこの約1ヵ月後にオーバートレーニング症候群を発症。ハリルホジッチ日本代表監督は「毎回GKを4名呼ぶ」と明言していたが、この件以降、基本的には3名の招集が続いた。

SVホルンに移籍した際に「(3部リーグの)ホルンの他のGKめちゃくちゃ上手ですよ。お世辞じゃなくてJ1ならどこでも先発できる。それぐらい、GKのレベルが欧州は高い」と語り、欧州と日本とGKの実力差を痛感した。

引用元:wikipedia

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