所属 | アスレティック・ビルバオ |
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背番号 | |
ポジション | 監督 |
生年月日 | 1965年08月14日(59歳) |
身長 / 体重 | |
国籍 | スペイン |
所属 | アスレティック・ビルバオ |
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背番号 | |
ポジション | 監督 |
生年月日 | 1965年08月14日(59歳) |
身長 / 体重 | |
国籍 | スペイン |
マルセリーノ・ガルシア・トラル(Marcelino García Toral スペイン語発音: 、1965年8月14日 - )は、スペイン・アストゥリアス州出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションは攻撃的ミッドフィールダー(MF)。現在は、アスレティック・ビルバオの監督を務めている。
経歴
選手時代
U-18代表から各年代の世代別スペイン代表に選出され、1985年にはFIFAワールドユース選手権に出場して準優勝した。スポルティング・デ・ヒホンの下部組織出身で、1985年12月22日、セルタ・デ・ビーゴ戦 (1-1) でトップチームデビューし、1986-87シーズンにはプリメーラ・ディビシオン(1部)4位となったチームでキャリアハイの33試合に出場した。ともにセグンダ・ディビシオン(2部)のラシン・サンタンデールとレバンテUDにも在籍したが、どちらのクラブでもセグンダ・ディビシオンB(3部相当)降格を経験し、26歳だった1991年に現役引退した。
指導者時代
33歳だった1997年、下部リーグのCDレアルタの監督に就任して指導者の道を歩み始めた。1998年にはセグンダBのヒホンB監督に就任し、5シーズン中4シーズンはセグンダBに在籍した。2003年にはセグンダに在籍していたヒホンのトップチーム監督に昇進し、2003-04シーズンは5位、2004-05シーズンは10位となった。2005年にはレクレアティーボ・ウェルバの監督に就任し、2005-06シーズンにはセグンダ・ディビシオン優勝とプリメーラ昇格に導いた。2006-07シーズンのレクレアティーボは降格候補の筆頭に挙げられたが、クラブ史上最高位の8位に躍進し、ミゲル・ムニョス賞(リーグ最優秀監督賞)を受賞した。
2006年夏にはレアル・ベティス監督就任が内定していたが、フロントの介入に嫌気が差して辞退し、戦力的にはベティスに劣るラシン・サンタンデールの監督に就任した。2007-08シーズンには開幕から驚異的な堅守を見せ、シーズンをリーグ6位で終えてUEFAカップ出場権を獲得した。41失点はリーグ3位の好記録だった。2008年夏にはバレンシアCF監督就任の噂があったが、2008年5月、セグンダに降格したレアル・サラゴサの監督に就任した。2008年12月、スペイン国内最高年俸だったベルント・シュスター監督(レアル・マドリード)が退任したため、年俸240万ユーロのマルセリーノが最高年俸監督となった。2008-09シーズンは後半戦に順位を上げて2位でプリメーラ復帰を決めた。しかし、2009-10シーズンは14節までに3勝3分8敗であり、降格圏間近の17位まで順位が低迷。2009年12月13日、成績不振により解任された。
2011年2月初頭、ミゲル・アンヘル・ポルトゥガル監督の後任として、下位に沈む古巣ラシン・サンタンデールの監督に就任し、12位で2010-11シーズンを終えた。ラシン・サンタンデールとの契約は2012年夏までであったが、給料の未払いが続くクラブに不信感を持ち、契約を解除してセビージャFC監督に就任した。しかし、2011-12シーズンは中位に低迷し、ビジャレアルCF戦 (1-2) に敗れて7戦連続未勝利となったため、2012年2月6日、成績不振を理由に解任された。
2013年1月、フリオ・ベラスケス監督の後任として、ビジャレアル監督に就任した。2部に属していたチームを昇格させ、2シーズン連続でEL圏内を確保するなどチームを立て直した。2015-16シーズンはチャンピオンズリーグ出場権を得る4位で終えるも、最終節のスポルティング・ヒホン戦で八百長疑惑をかけられ電撃退任した。
2018-19シーズン、バレンシアの監督としてスペイン国王杯決勝ではFCバルセロナを2-1で破りチームに久しぶりにタイトルをもたらした。しかし、フロント陣との対立で、2019年9月11日に解任された。
2021年1月、ガイスカ・ガリターノ監督の後任として、アスレティック・ビルバオの監督に就任した。引用元:wikipedia
2021年1月31日