所属 | ACFフィオレンティーナ |
---|---|
背番号 | 7 |
ポジション | FW |
生年月日 | 1983年04月07日(41歳) |
身長 / 体重 | 170cm / 72kg |
国籍 | フランス |
所属 | ACFフィオレンティーナ |
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背番号 | 7 |
ポジション | FW |
生年月日 | 1983年04月07日(41歳) |
身長 / 体重 | 170cm / 72kg |
国籍 | フランス |
フランク・アンリ・ピエール・リベリー(Franck Henry Pierre Ribéry, 1983年4月7日 - )は、フランス・ブローニュ=シュル=メール出身のサッカー選手。セリエA・ACFフィオレンティーナ所属。元フランス代表。ポジションはミッドフィルダー、フォワード。
クラブ経歴
フランス時代
13歳でLOSCリール・メトロポールの下部組織に入団し、下部組織のブルーノ・トマソン監督に高い評価を受けたが、学業成績不振により16歳の時に家に送り返された。2001年に地元のUSブローニュからデビューし、2002年にはオランピック・アレスに加入するも、クラブの財政破綻によりスタッド・ブレスト29に移籍した。この頃にはEAギャンガンのトライアルを受けて不合格になった経験がある。2004年にリーグ・アン(1部)のFCメスに移籍し、月間MVPを獲得する活躍を見せたが、首脳陣と対立したために2005年1月にはガラタサライSKに移籍した。
2005年夏にオリンピック・マルセイユに移籍し、2005-06シーズンにはリーグ最優秀若手選手賞を受賞した。
バイエルン
2007年6月6日、4年契約でFCバイエルン・ミュンヘンに移籍した。通訳役を買って出たDFダニエル・ファン・ブイテンなどの助けもあり、すぐにチームになじんだ。2007-08シーズンはレギュラーとしてリーグ戦で11ゴールを挙げ、ブンデスリーガとドイツカップの2冠を達成し、リーグ最優秀選手に選ばれた。
2009-10シーズンは新加入のアリエン・ロッベンとともに両サイドから攻撃を牽引し、バイエルンの2シーズンぶりのブンデスリーガ優勝に貢献した。チャンピオンズリーグでもチームの決勝進出に貢献したが、準決勝ファーストレグのオリンピック・リヨン戦でリサンドロ・ロペスのすねを踏みつけ1発退場となった。結局バイエルンは決勝に進んだものの、リベリーはこのファールにより3試合の出場停止が課され、決勝に出場することができなかった。シーズン終了後、バイエルン・ミュンヘンとの契約を2015年まで延長した。
2014年12月6日に行われたバイエル・レバークーゼン戦で、マチュー・デルピエールが保持していたブンデスリーガのフランス人最多出場記録を更新した。また同試合でバイエルンでの100ゴールを達成した。
2018-19シーズンをもって長年プレーしたバイエルン・ミュンヘンを退団する事が発表された。同シーズンに優勝し、ブンデスリーガの最多優勝記録を作ると共にホームでの最終ゲームでは惜別のゴールを決めた。また、優勝したポカール決勝のRBライプツィヒ戦では後半終了間際からポカール決勝最多出場者となる8回目の出場を果たした。
フィオレンティーナ
2019年8月21日、ACFフィオレンティーナへの加入が発表された。9月22日のアタランタ戦で移籍後初ゴールを決め、第6節のACミラン戦でもゴールを決め、チームの勝利に貢献し、2019年9月のセリエA月間MVPに選出された。しかし11月30日セリエA第14節レッチェ戦で悪質なタックルを受け右足首のじん帯を負傷、長期離脱が決定したが、2020年6月23日のブレシア戦で復帰を果たした。
代表経歴
ユース代表の経験は豊富で、2006年5月27日のメキシコ戦でフランス代表デビューした。2006年にはドイツワールドカップのフランス代表メンバーに選ばれ、グループリーグでは周りと噛み合わない場面もあったものの、決勝トーナメント1回戦のスペイン戦では、逆転への足掛かりとなる同点ゴールを決めるなど、徐々に調子を上げ、フランス代表の準優勝に貢献した。
UEFA EURO 2008では不振のフランス代表にあって、中心選手として孤軍奮闘したが、フランスの決勝トーナメント進出を賭けたグループリーグ最終戦の対イタリア戦の前半9分にジャンルカ・ザンブロッタと接触した際に、負傷退場した。その後のフランスは攻撃の要であったリベリーの穴を埋めることができず、エリック・アビダルの退場処分によって人数が少なくなったこともあり、なすすべなく敗北した。フランスはわずか1得点しか挙げられず、1勝もできずに大会を去ることとなった。
2010 FIFAワールドカップではチームの中心選手として臨んだものの、主将のパトリス・エヴラらとともに練習ボイコットの首謀者とされたりチームメイトのヨアン・グルキュフをいじめたと報じられるなど、不振に終わったフランス代表の戦犯の1人とされ、大会終了後にはフランスサッカー連盟から3試合の出場停止処分が課された。その後2011年3月に、エヴラとともにW杯後初めて代表に招集されたが、復帰後最初のホームでの試合となった3月29日のクロアチア戦ではサポーターから大きなブーイングを受けた。2014 FIFAワールドカップは、腰痛のため欠場した。
人物
ドーバー海峡に面した港町ブローニュ=シュル=メールで最も貧しいとされるシュマン・ヴェール地域生まれ。2歳の時に父親の運転する車で事故に遭い、路上に投げ出されたという経験を持つ。この時に額から右頬にかけてできた傷は今も深く残っている。
整形外科技術の向上により縫合痕を消す事も可能だが本人は「(父との絆の証であり)慣れ親しんでいる」として整形の意思は無い。オランピック・アレスを離れ、スタッド・ブレスト29に加わるまでの間に建設作業員である父と現場で働いていた。2005年にムスリムの夫人と結婚し、自身もイスラム教に改宗している。その夫人とは1男2女を儲けている。優勝セレモニー時などにおけるシャンパンファイトでは宗派上アルコール厳禁なために、チームメイトがリベリーに浴びせようと追うも、顔を強張らせ全速力で逃げる様子が撮られている。
陽気で外交的な性格であり、ドイツ移住後もすぐにチームやファンに溶け込んだ。いたずら好きであり、オリヴァー・カーンにバケツ一杯の水をかけたり、チームバスを運転して道路標識にぶつけたことがある。
歴史上最も優れた選手としてはジネディーヌ・ジダンを挙げている。
2014年6月、アメリカの経済誌フォーブスは世界のアスリートの年収を公表した。リベリーの年収は1830万ドル(約18億7000万円)であり、世界のアスリートの中で92位。サッカー選手の中では14位。
2020年7月6日、自宅が空き巣被害に遭ったと報じられた。引用元:wikipedia
2021年1月31日