ジョゼ・モウリーニョ

所属
背番号
ポジション 監督
生年月日 1963年01月26日(61歳)
身長 / 体重
国籍 ポルトガル

ジョゼ・モウリーニョの情報

ジョゼ・マリオ・ドス・サントス・モウリーニョ・フェリックス OIH(José Mário dos Santos Mourinho Félix、1963年1月26日 - )、通称ジョゼ・モウリーニョ(José Mourinho)は、ポルトガル・セトゥーバル出身のサッカー指導者。2019年よりプレミアリーグのトッテナム・ホットスパーFCの監督を務めている。

ポルトガル語での発音(ポルトガル語発音: )に近い日本語表記はジュゼ・ムリーニュ。監督として唯一UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに4度選ばれている。また過去に5人しか達成していない、異なる2つのチームを欧州王者に導いた監督のうちの1人であり、監督としてイングランド、イタリア、スペインのリーグ戦と国内カップ戦(プレミアリーグ、セリエA、プリメーラ・ディビシオン)優勝を成し遂げるなど、数々の偉業を達成させた希代の名将としても知られる。

概要

1980年からポルトガル2部でサッカー選手としてのキャリアをスタートさせ、1987年まで2部の各クラブを渡り歩いた。

引退後、リスボン工科大学でスポーツ科学を学び、イギリスではコーチングコースに参加した。リスボンにおいて体育教師として働きながら、ユースチームの指導者やスカウト、コーチとしてしばらくの間働いた。1990年代始めに、ポルトガルのスポルティングCPの通訳となったのを皮切りに、ボビー・ロブソン監督の下、アシスタント・コーチに就任、以後FCポルト、スペインのFCバルセロナとロブソンと行動を共にした。ロブソンがFCバルセロナの監督を退任した後も、後任のルイ・ファン・ハールの下、アシスタント・コーチとして2000年までFCバルセロナに在籍している。この時期、後に監督としてのライバルとなるジョゼップ・グアルディオラとはアシスタント・コーチと選手の関係であった。

2000年にFCバルセロナを退団後、ベンフィカとウニオン・レイリアの監督に就任すると短期間で成功を収め、特にウニオン・レイリアでは過去最高位でシーズンを終えた。2002年にポルトの監督に就任すると、2003年にはプリメイラ・リーガ、タッサ・デ・ポルトガル、UEFAカップを制した。翌年にはスーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラに勝利、リーグは2連覇を果たし、更にUEFAチャンピオンズリーグに優勝し、クラブを欧州チャンピオンへと導いた。

2004年、イングランドプレミアリーグのチェルシーFCの監督に就任すると、最初のシーズンに最多勝点記録95で50年振りにリーグを制し、フットボールリーグカップも優勝した。2シーズン目となった2005-06シーズンもチェルシーはリーグを制し、2006-07シーズンはリーグは2位に終わったものの、FAカップとリーグカップの2冠を達成した。クラブオーナーのロマン・アブラモヴィッチとの不和が報道される中、2007年9月に退任した。

2008年、セリエAのインテルの監督に就任した。3ヶ月でスーペルコッパ・イタリアーナを制すると、リーグでも優勝を果たした。2009-10シーズン、インテルはイタリアクラブ史上初となるセリエA、コッパ・イタリア、UEFAチャンピオンズリーグの三冠を達成した。2つの異なるクラブを率いて欧州チャンピオンとなったのは、これまでエルンスト・ハッペル、オットマー・ヒッツフェルト、ユップ・ハインケス、カルロ・アンチェロッティ、モウリーニョの5人のみである。2010年には新設されたFIFAバロンドール最優秀監督賞を受賞した。以後、2010年までインテルの監督を務めた。

2010年、レアル・マドリードの監督に就任、最初のシーズンにはコパ・デル・レイを制した。翌年にはプリメーラ・ディビシオンを制し、トミスラフ・イヴィッチ、エルンスト・ハッペル、ジョバンニ・トラパットーニに次いで、異なる4カ国でリーグタイトルを制した4人目の監督となった。2013年6月にマドリードを退任した。

2013年、再びチェルシーの監督に就任した。復帰2年目の2014-15シーズンはキャピタル・ワン・カップを制し、さらに独走状態でチェルシーの5シーズンぶり5度目のリーグ優勝に貢献し、二冠を達成した。だが、2015-16シーズンは開幕から絶不調に陥り、第16節の時点で4勝3分9敗の16位と大苦戦。チャンピオンズリーグではグループGを首位通過するも、2015年12月18日に成績不振を理由に解任された。

2016年、マンチェスター・ユナイテッドの監督に就任し、同シーズンにリーグカップとヨーロッパリーグを制した。大型補強などを敢行したものの、プレミアリーグをはじめとした他のタイトルは獲得できず。直近のリヴァプールとのナショナルダービーでも1-3で敗戦したことをきかっけに、2018年12月18日、マンチェスター・ユナイテッドの監督を解任された。

2019年11月20日、トッテナム・ホットスパーの監督に就任。

経歴

父親のフェリックス・モウリーニョは元ポルトガル代表のゴールキーパーで、少年時代は父親にチームのスパイとして使われ、試合相手のチームの弱点などを探ってくる役目を与えられていたという。裕福な家庭の生まれで、使用人もいたようである。ポルトガルのユース代表に選出されたこともあるが、故障により、本人曰く「三流だった」選手生活を早々切り上げたため、プロとしての実績はない。

通訳・アシスタントコーチ時代
リスボンで一度、体育教師になるが、指導者の道を志してスコットランドで語学を勉強。ボビー・ロブソンがスポルティングCPの監督に就任した際に通訳としてスタッフ入りし、以降厚い信頼を受けてロブソンとともにFCポルト、バルセロナといったクラブで通訳を務める。ロブソンがバルセロナを去った後、監督に就いたルイ・ファン・ハールのアシスタントコーチも経験した。なお、バルセロナ時代は通訳と思われがちだがカタルーニャサッカー協会には助監督として登録されている。

ポルトガル時代
2000-01シーズンにポルトガルの古豪ベンフィカの監督に就任した。不調だったクラブを建て直し、ライバルのスポルティングCPを3-0で破るなど順調なスタートを切った。しかし、会長交代劇などの内紛によりそのスポルティングCP戦までの8試合の指揮を執った後、自らリスボンを離れる。ちなみに、このシーズンのベンフィカは6位でクラブ史上最低の順位だった。

2001-02シーズン、リーグ中位のウニオン・レイリアの監督に就任。クラブを19試合9勝7分3敗・リーグ4位の好成績に導く。

シーズン途中の2002年1月、当時不調に喘いでいた名門FCポルトに引き抜かれる。彼は残りの試合を15戦11勝2分2敗で乗り切り、低迷していた名門の順位を最終的に3位まで上昇させた。ポルト監督就任時、彼は不遜にも「(中位に甘んじる)このクラブを来年チャンピオンにしてみせる」と宣言し、メディアの冷笑を買ったが、彼はそれ以上の偉業を翌年以降成し遂げることとなる。

2002-03シーズン、モウリーニョに率いられたポルトは快進撃を続け、スーペル・リーガ、ポルトガルカップのタイトルを獲得。さらにUEFAカップ決勝でもセルティックFCを延長の末に下し、三冠を達成。指導者として国際的に注目され始めた。

2003-04シーズンには、圧倒的な強さでリーグ二連覇を成し遂げる。ポルトガルカップは決勝でベンフィカに延長の末敗れたが、UEFAチャンピオンズリーグでは、決勝でASモナコを3-0で下し制覇。ポルトを17年ぶりのヨーロッパチャンピオンに導き、より一層評価を上げた。

チェルシー(第一次)
2004-05シーズンからはプレミアリーグのチェルシーFCで指揮を執った。ここでも就任一年目から創立百周年の記念の年を迎えたチェルシーに50年ぶりのリーグ優勝をもたらし、リーグカップとともに二冠を達成。名将としての評価を不動のものとした。

2005-06シーズンも独走でプレミアリーグ連覇を成し遂げるが、優勝決定後のセレモニーで優勝メダルを惜しげもなく観客席に投げ入れるなど、物議を醸している。とはいえファンは大喜び。

2006-07シーズンはFAカップ、リーグカップのカップ・ダブルを達成するが、24人前後という少数精鋭で戦うチームであった為、怪我人の対応に後手を踏んだ。2006年10月14日に行われたレディング戦で頭蓋骨の陥没骨折という大怪我を負った守護神のペトル・チェフを筆頭に、主将のジョン・テリーや同じイングランド代表の主力だったアシュリー・コールといったDF陣を中心とした実に10人近くの主力が相次ぐ故障に倒れ冬の移籍市場でDFの補強を要求するモウリーニョと、補強をしようとしない経営陣との対立が表面化。「このチームにスターは存在しない。一致団結したチームこそスターだ」というモウリーニョ・イズムは崩れ、「報道を忘れる必要がある」と否定する姿勢を見せず、同シーズン限りでチームの監督を辞するのではという憶測が流れた。モウリーニョ自身は「2010年の契約満了まで自分から辞める事はない」と明言。だが、クラブオーナーであるロマン・アブラモヴィッチの態度は不明瞭であり解任の噂が絶えなかった。結局史上5チーム目の3連覇が懸かっていたリーグ戦では、テリーが欠場した(18節~25節)試合は4勝3分け1敗で、総失点24のうち10失点がこの時期に奪われたのもあり、優勝したマンチェスター・ユナイテッドに6ポイント差を付けられて2位に終わった。そして、2007年9月15日に行われたプレミアリーグのブラックバーン・ローバーズ戦や、2007年9月18日に行われたUEFAチャンピオンズリーグで、ノルウェー・エリテセリエンの王者・ローゼンボリ戦といった勝ちを計算出来た筈の2試合をいずれも引き分けたのが決定打となり、2007年9月20日、チェルシーとの契約解除が公式ホームページ上で発表された。モウリーニョとクラブ側双方合意の上でのものだったが、事実上の解任であった。後任には、アヴラム・グラントが就任。このシーズン、クラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグ決勝に進出を果たすも、サポーターから「モウリーニョの遺産」と揶揄されていた。

チェルシー退団後
チェルシーを退団してフリーの身となった際、各国クラブから監督就任の打診を受けているが、モウリーニョが要求する高額な年俸がネックになっているとされ、いずれも噂の域を出なかった。

そんな中、2007年11月にイングランド代表のEURO2008予選敗退を受け解任されたスティーブ・マクラーレンの後任最有力候補であると報道された。

しかし、この件については、モウリーニョとFA幹部との三者会談の後、代理人を介して「素晴らしい仕事だとは思うが、熟考の末、イングランド代表監督候補になっても身を引くことにした。」と声明を発表し、代表監督就任を辞退している(なお、イングランド代表監督の後任にはファビオ・カペッロが就任した)。

インテル
その後も引く手数多の状態が続いていたが、2008年6月2日、解任されたマンチーニ監督の後任としてイタリア・セリエAのインテル監督就任が発表された。セリエA初指揮となった2008-09シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナとリーグ優勝の二冠を達成。一方でチャンピオンズリーグではマンチーニ時代から合わせて3年連続となるベスト16止まり。しかし、翌2009-10シーズンはチェルシー、CSKAモスクワ、バルセロナ、そしてかつての師であるルイス・ファン・ハール率いるバイエルン・ミュンヘン等の各国の強豪(しかもCSKA以外の3チームはこの年の各国リーグ王者)を破り45年ぶりのチャンピオンズリーグ優勝、そして同年のセリエA、コッパ・イタリアも制し、イタリア史上初の三冠に導いた。この三冠を達成した優勝記者会見でインテル監督を辞任すると発言。2010年5月28日、モラッティとペレス両会長の直接会談により、レアル・マドリードがインテルに違約金を支払う形で残り2年の契約が解除された。

レアル・マドリード
2010年5月31日、レアル・マドリードの監督就任が発表された。契約期間は4年。就任初年度は序盤から好調を維持してリーグ戦首位にたったものの、監督就任後初となるエル・クラシコで5-0の大敗を喫して2位に転落すると、驚異的なペースで勝ち点を積み重ねるFCバルセロナに及ばずリーグ戦2位に終わった。それでもUEFAチャンピオンズリーグでは6年連続でベスト16止まりだったチームをベスト4にまで進出させ、コパ・デル・レイでは決勝でFCバルセロナを1-0で破り、18年ぶりの優勝を果たしてバルセロナのトレブルを阻止した。

2011-12シーズンは、ほぼ毎試合圧倒的な攻撃力で大差をつけるゲームを披露してリーグ戦を独走。2012年2月26日のラーヨ・バジェカーノ戦に勝利し、プリメーラ・ディビシオン通算50勝を、史上最速となる62試合で達成した。終盤にはライバルのFCバルセロナに猛追されたものの、アウェーでの直接対決で勝利して突き放し、優勝を成し遂げた。この結果、欧州3大リーグ(プレミアリーグ、セリエA、プリメーラ・ディビシオン)優勝を成し遂げた史上初の監督となり、欧州の4カ国の1部リーグ優勝を果たした史上2人目の監督となった(1人目はジョバンニ・トラパットーニ)。

2012-13シーズンは、スーペルコパ・デ・エスパーニャでバルセロナを破りスペインスーパーカップを制覇。チャンピオンズリーグでは3年連続で準決勝に進出するもボルシア・ドルトムントに敗退。リーグ戦では序盤戦での取りこぼしが響き連覇を逃すと、コパ・デル・レイ決勝でもアトレティコ・マドリードに敗れ2年ぶりの優勝を逃すなど、リーグとカップ戦では無冠に終わった。シーズン終了後の2013年5月20日、クラブ側との同意で、契約を解消しマドリードからの退団が決定した。

チェルシー(第二次)
2013年6月3日、4年契約でチェルシーに復帰が発表された。マーク・シュワルツァー、アンドレ・シュールレ、インテル時代の教え子サミュエル・エトオらを獲得した。2013-14シーズンのプレミアリーグでは上位チーム相手には勝負強さを見せつけたものの、下位チーム相手の取りこぼしが祟り、3位に終わった。モウリーニョ自身がそれまで持っていたホームスタンフォード・ブリッジでの無敗記録も、2014年4月20日のサンダーランド戦に敗れたことで77試合で止まった。リーグカップでは準々決勝でそのサンダーランドに、FAカップでは5回戦で2月1日にチェルシーにホーム全勝記録を止められたマンチェスター・シティにリベンジされる様にして敗れた。UEFAヨーロッパリーグ王者として臨んだUEFAスーパーカップでは、ジョゼップ・グアルディオラ率いるUEFAチャンピオンズリーグ王者のバイエルン・ミュンヘンと対戦し、延長戦の末敗れた。UEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝で前年レアル時代に国王杯決勝で敗れたディエゴ・シメオネ率いるアトレティコ・マドリードと対戦。第1戦はスコアレスドローに終わり、ロンドンでの第2戦は36分に古巣対決でもあるフェルナンド・トーレスのゴールで先制したがその8分後にアドリアン・ロペスに同点弾を叩き込まれ2試合合計でアウェーゴールの関係上逆転されて前半を折り返すと、後半ジエゴ・コスタにPKを沈められた後前掛かりになった所をアルダ・トゥランに突かれ勝負あり。2戦合計1-3で敗れ、リベンジを果たせなかった。FAコミュニティ・シールドにはチェルシーは出場していないので、2001-02シーズンのウニオン・レイリア時代以来12シーズンぶり、ポルトやチェルシーの様なビッグクラブを率いるようになった2003年以来では初めての無冠に終わった。

復帰2年目の2014-15シーズンはロメル・ルカクやフェルナンド・トーレスやダヴィド・ルイスを放出したものの、前年度のCLファイナリストであるアトレティコ・マドリードからジエゴ・コスタとフィリペ・ルイスを獲得し、レンタル移籍していたベルギー代表GKティボ・クルトゥワが復帰した。さらにFCバルセロナからスペイン代表MFセスク・ファブレガスを、ガラタサライSKからかつての教え子であるコートジボワール代表FWディディエ・ドログバを、クイーンズ・パーク・レンジャーズFCからフランス代表FWロイク・レミーを獲得し、チームの層をより厚くした。キャピタル・ワン・カップを制し、さらに独走状態でチェルシーの5シーズンぶり5度目のリーグ優勝に貢献し、二冠を達成した。

2015-16シーズンはスペイン代表FWペドロ・ロドリゲスやコロンビア代表FWラダメル・ファルカオらを獲得したものの、その一方で補強リストに載せていたジョン・ストーンズの獲得に失敗。開幕前にウェイトオーバーを申告したジエゴ・コスタやアザールら主力の不振に主将のテリーの衰え等で、開幕から11試合で6敗と絶不調に陥り、第16節の時点で4勝3分9敗の16位と大苦戦。また開幕戦にあたるスウォンジー・シティ戦で2-2のスコアで迎えた試合終盤にドクターのエバ・カルネイロがアザールの負傷で駆け付けた際にカルネイロに怒りをぶちまけ試合後に「ドクターだろうと用具係だろうと、ベンチにいる以上はフットボールを理解しなければならない、馬鹿正直だった。」と非難した。チャンピオンズリーグではグループGを首位通過するも、12月18日、成績不振を理由に解任された。

マンチェスター・ユナイテッド
2016年5月27日、マンチェスター・ユナイテッドはジョゼ・モウリーニョと2016-17シーズンから2019年6月30日までとなる3年契約、さらに4年目の2020年6月30日までとなる契約更新のオプションがついた条件を締結すると発表。移籍市場ではユヴェントスからポール・ポグバ、ボルシア・ドルトムントからヘンリク・ムヒタリアン、ビジャレアルCFからエリック・バイリー、パリ・サンジェルマンFCからズラタン・イブラヒモビッチを獲得し大金を注ぎ込んだ。8月7日、FAコミュニティ・シールドで昨シーズンリーグ王者のレスター・シティFCを破り、マンチェスター・ユナイテッドで初タイトルを獲得。守備面ではプレミアリーグ2位の29失点と堅守を披露したものの、攻撃面ではPSGからフリーで獲得したイブラヒモヴィッチに依存し、得点力不足を露呈。そのため90分では勝ち切ることができず、プレミアリーグではクラブ新記録の25戦連続無敗を達成する一方で引き分けがリーグ最多の15試合となって勝ち点を伸ばせずに6位でフィニッシュ。しかし一発勝負であったり、2試合180分を戦えば勝てるようになり、EFLカップで優勝。さらにはヨーロッパリーグも決勝まで順当に勝ち進んで決勝もアヤックスに2-0で完封勝利し、クラブ初のEL優勝を達成。同時に、CLとELの両方を複数チームで制した史上初の監督となった。

トッテナム・ホットスパー
2019年11月20日、トッテナム・ホットスパーFCの監督に就任することが発表された。契約は2022-23シーズン終了まで。2019年11月23日、就任から3日後にアウェーでのウェストハム・ユナイテッドとの試合で白星を挙げ、好調なスタートを切った。なお、トッテナムにとってアウェイでの勝利は同年5月8日のチャンピオンズリーグ2018-19シーズン準決勝のアヤックス戦以来、リーグ戦に限れば1月20日のフラム戦以来のことであった。就任後初のCLかつホーム戦となるグループ5節オリンピアコス戦では2点を先取されるも、29分という早い時間の交代で流れを引き寄せ、4点を奪って逆転勝利した。年始頃からエースのケインを含む複数の主力選手が相次いで負傷離脱する不運に見舞われ、2020年3月10日のRBライプツィヒ戦に敗れた時点で監督キャリア最長の6戦連続勝利なしを記録するなど苦境に陥ったが、ここで新型コロナウィルス感染拡大によりリーグ戦が中断し、6月のリーグ戦再開をほぼフルメンバーで迎えた。7月6日の33節エヴァートン戦に勝利し、プレミアリーグの歴史では5人目となる通算200勝を達成した。リーグ戦通算326試合での同記録達成はアレックス・ファーガソン元マンチェスター・ユナイテッド監督の記録した322試合に次いで2番目の早さである。7月15日の第36節ニューカッスル戦にアウェイで3-1と勝利し、監督キャリアでの同クラブとのアウェイ戦8試合目にして初めての勝利を挙げた。リーグ戦の再開後、9試合を5勝3分1敗とし、最終節で6位に滑り込み来季のUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得した。リーグカップには就任前に敗退しており、FAカップではラウンド16でノリッジ・シティにPK戦で敗れ、CLではラウンド16でRBライプツィヒに0-4で敗れて就任初年度は無冠に終わった。

2020-21シーズンを前にピエール・エミール・ホイビュルクやマット・ドハーティなど総勢7人の大型補強を行い開幕を迎えた。プレミアリーグ開幕節のエヴァートンFC戦に敗れ、キャリアを通じての同リーグ開幕戦11試合目にして初めての黒星を記録した。

引用元:wikipedia

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