所属 | UCサンプドリア |
---|---|
背番号 | |
ポジション | 監督 |
生年月日 | 1951年10月20日(73歳) |
身長 / 体重 | -cm / -kg |
国籍 | イタリア |
所属 | UCサンプドリア |
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背番号 | |
ポジション | 監督 |
生年月日 | 1951年10月20日(73歳) |
身長 / 体重 | -cm / -kg |
国籍 | イタリア |
クラウディオ・ラニエリ(Claudio Ranieri、1951年10月20日 - )は、イタリア・ローマ出身の元サッカー選手。サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。UCサンプドリアの監督を務めている。
選手経歴
1973年にASローマでプロデビュー。しかし、出場機会に恵まれず、2シーズンで6試合に出場したのみで移籍。その後はカタンザーロ、カターニア、パレルモと渡り歩き、主にDFとしてプレー。1985-86シーズンを最後に引退した。
監督経歴
キャリア初期
1986年より監督としてのキャリアを開始。イタリア下部のチームを率いた後、1988年にカリアリの監督に就任した。同クラブをセリエC1からセリエAまで引き上げる。この実績が認められ、1991年にはナポリの監督に就任。就任2年目に成績不振で解任されたが、衰えの見えていたディエゴ・マラドーナに代わり、若手だったジャンフランコ・ゾラの才能を見出した。1993年よりフィオレンティーナの指揮官に就任すると、セリエAへの昇格に成功。1996年にはコッパ・イタリア優勝に導いた。
バレンシア (第1期)
1997年にはスペインに新天地を求め、バレンシアの監督に就任。カウンターアタックによる攻撃スタイルを確立し、2シーズンの間にバレンシアを上位争いに食い込むチームへと成長させた。また、人材の育成や獲得にも手腕を発揮。下部組織出身のガイスカ・メンディエタやミゲル・アンヘル・アングロを育て、レアル・マドリードからサンティアゴ・カニサレスを獲得し正GKに据えた。
チェルシー
アトレティコ・マドリードの監督を経て、2000年にイングランドのチェルシーFCの監督に就任。ナポリ監督時代の教え子ゾラを中軸に据えつつ、フランク・ランパードやウィリアム・ギャラスを獲得し、未来のキャプテンであるジョン・テリーを抜擢する一方で、ベテランのデニス・ワイズを放出するなどチームの改革に成功した。2003年夏にロマン・アブラモヴィッチが新オーナーになると、1億5,000万ユーロを投じる空前の大型補強が行われる。期待が高まる中で迎えた2003-04シーズンは、無敗で優勝したアーセナルに次ぐ国内リーグ2位、UEFAチャンピオンズリーグではアーセナルを破ってのベスト4と一定の結果を出したが、求められていたタイトル獲得はならず。ラニエリはシーズン終了と同時に解任され、ジョゼ・モウリーニョがその後釜に座ることになった。
バレンシア (第2期)
2004年夏、バレンシアの監督に復帰。開幕前にマルコ・ディ・ヴァイオ、ステファノ・フィオーレ、エミリアーノ・モレッティといったイタリア人の戦力を集め話題になる。しかし、成績は振るわずシーズン途中の2005年2月に解任された。
パルマ
パルマ時代
空白期間を経て、2007年2月にパルマFCの監督に就任。冬の移籍市場で加入したジュゼッペ・ロッシの大活躍にも助けられ、就任時に18位だったチームを立て直し、最終的に12位まで順位を上げてセリエA残留に成功した。
ユヴェントス
パルマとは契約を延長せず、翌2007-08シーズンよりセリエAに復帰するユヴェントスの指揮官に3年契約で迎えられる。昇格直後のチームを率いてリーグ戦を3位で終え、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
就任2年目の2008-09シーズンは、チャンピオンズリーグのグループステージでレアル・マドリードに連勝したものの、決勝トーナメント一回戦でチェルシーFCに敗北。国内リーグでも勝ちきれない試合が続き、2009年5月18日に解任された。
ローマ(第1期)
2009年9月2日、開幕直後に辞任したルチアーノ・スパレッティの後任として、古巣であり出身地のクラブでもあるASローマの監督に就任。実利優先の堅実なサッカーを導入し、チームを上昇気流に乗せることに成功。優勝したインテルと勝ち点2差の2位でシーズンを終え、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を得た。しかし、翌シーズンは一転して不振に陥り、シーズン途中の2011年2月20日に辞任した。
インテル
2011年9月22日、ジャン・ピエロ・ガスペリーニの後を受けてインテルの監督に就任した。契約期間は2013年6月30日までの二年間。7連勝を挙げるなど一時は好調だったが、1月末から9戦勝ちなし、UEFAチャンピオンズリーグもベスト16で敗退と低迷。ユヴェントスに0-2で敗れた後、解任された。
ASモナコ
2012年5月、リーグ・ドゥのASモナコの監督に就任。2012-13シーズンは1部昇格に導き、大量補強をした2013-14シーズンは2位に導きチャンピオンズリーグ出場権を得るものの、2014年5月に解任。
ギリシャ代表
2014年のワールドカップ終了後にギリシャ代表監督に就任するが、成績不振により同年11月に解任。公式戦の戦績は4試合で3敗1分け。UEFA EURO 2016予選は最下位に低迷していた。
レスター・シティ
シーズン開幕前に電撃解任されたナイジェル・ピアソンの後を受け、2015-16シーズンから指揮をとった。堅守速攻の戦術を基底に据え、プレミアリーグ新となる11戦連続ゴールを記録したジェイミー・ヴァーディ、チームでの活躍を評価されナショナルチーム初招集を受けたダニー・ドリンクウォーターとエンゴロ・カンテ、このシーズンのPFA年間最優秀選手賞を受賞することになるリヤド・マフレズなどの進境著しい選手を率い、残留争いを演じていた前シーズンとは一転、シーズン前半から首位争いを演じた。シーズンを折り返した後も2位につけていた優勝争いの常連、マンチェスター・シティを敵地エティハド・スタジアムで破り首位を守るなど好調を維持。2016年5月2日に優勝が確定、レスター・シティにクラブ創設133年目にして初のトップリーグタイトルをもたらすとともに、自身も長年欧州各国の強豪チームの監督を務めたにもかかわらず無縁だったリーグタイトルを、初めて手にすることになった。
翌シーズンは、UEFAチャンピオンズリーグではグループステージを首位突破したものの、リーグ戦では降格圏に低迷。 2017年2月23日、成績不振による解任が発表された。
ナント
2017年6月12日、FCナントの監督に就任した。
フラム
2018年11月14日、フラムFCの監督に就任した。しかし、シーズン通じての悪い流れを変えることは出来ず、2019年2月28日に解任された。
ローマ(第2期)
2019年3月8日、解任されたエウゼビオ・ディ・フランチェスコの後任として、ASローマの監督に就任2018-19シーズン終了まで監督を務めた。
サンプドリア
2019年10月12日、UCサンプドリアの監督に就任した。引用元:wikipedia
2021年1月31日