所属 | FCバルセロナ |
---|---|
背番号 | 8 |
ポジション | MF |
生年月日 | 1990年04月02日(34歳) |
身長 / 体重 | 178cm / 72kg |
国籍 | ボスニア・ヘルツェゴビナ |
所属 | FCバルセロナ |
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背番号 | 8 |
ポジション | MF |
生年月日 | 1990年04月02日(34歳) |
身長 / 体重 | 178cm / 72kg |
国籍 | ボスニア・ヘルツェゴビナ |
ミラレム・ピャニッチ(Miralem Pjanić、1990年4月2日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナ・トゥズラ出身のサッカー選手。リーガ・エスパニョーラ・FCバルセロナ所属。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表。ポジションはミッドフィールダー。発音上、ピャニッチのほうが適切ではあるが、メディアによっては、ピアニッチと表記することもある。
経歴
幼少期
1990年4月2日、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国内・ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国(当時)のトゥズラに生まれる。ユーゴスラビア3部リーグでプレーしていた父の影響でサッカーに興味を持ち、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を前に一家が逃れたルクセンブルクでサッカーを始めた。7歳でシフランジュのサッカークラブ、FCシフランジュ95のユースチームに入団した。
フランス時代
14歳でフランスのFCメスの下部組織に入団し、2007年8月18日にパリ・サンジェルマン戦でトップチームデビュー。同年11月に17歳でプロ契約を結ぶ。12月15日のFCソショー戦ペナルティーキックで初得点を記録した。ユース時代から様々なクラブから注目されながらもメスがルクセンブルクの実家に近いことから移籍を拒否していたが、メスの2部降格を機に、2008年7月2日にオリンピック・リヨンへ移籍金800万ユーロで移籍。2009-10シーズンはチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦、対レアル・マドリード戦やリーグ戦終盤、翌季のUEFAチャンピオンズリーグ出場権をかけたオセールとの直接対決など、重要な試合でゴールを挙げた。一方2010年1月にヨアン・グルキュフが加入してからはレギュラーを奪われ、出場機会も減少した。
ASローマ
2011年8月31日、ASローマと4年契約を結んだ。移籍金は1100万ユーロ。ローマでは中盤の主力として、2014-15シーズンには10アシスト、2015-16シーズンには10ゴール12アシストとローマの3シーズン連続チャンピオンズリーグ圏内に入る躍進の担い手として活躍した。アシストは2シーズン連続でリーグ最多であった。
ユヴェントスFC
その活躍からバイエルン・ミュンヘンやFCバルセロナ、チェルシーFC、ユヴェントスFCへの移籍の噂が流れた。2015-16シーズン終了後の2016年6月、ピャニッチのユヴェントスFCへの移籍報道が流れると、2016年6月9日、ASローマのマウロ・バルディッソーニGD(ゼネラルディレクター)はASローマの公式ラジオでピャニッチからユヴェントスへの移籍の意志を伝える書面を受け取ったとしてその内容を読み上げた。その後、ユヴェントスは移籍金3200万ユーロでピャニッチの移籍を完了したと発表。契約は5年間である。背番号はピャニッチの憧れの選手であり、かつてユヴェントスFCに所属したジネディーヌ・ジダンのレアル・マドリード時代の背番号にちなんで5番となった。
9月10日、サッスオーロ戦でユヴェントスでの初ゴールを記録。
2018年8月21日、ユヴェントスとの契約を2023年まで延長した。新たな年俸は650万ユーロで、これはユヴェントスではクリスティアーノ・ロナウド、パウロ・ディバラに次ぐ3番目の高給となった。
2020年6月29日、FCバルセロナはアルトゥールとの実質的なトレードでユヴェントスFCからの移籍を発表した。移籍金は6000万ユーロ、ボーナスは最大で500万ユーロ。契約期間は4年間。2019-20シーズンは新型コロナウイルス流行によりシーズン終了までユヴェントスFCでプレー。同シーズンはセリエAで優勝した。
FCバルセロナ
2020年8月にバルセロナへの移籍が正式に完了したものの、同月末に新型コロナウイルスに感染していたことが判明。9月から始まる全体練習の合流が遅れると報じられた。
代表
U-19ルクセンブルク代表でプレーした後、2007年からU-21ボスニア・ヘルツェゴビナ代表を選択。2008年8月20日、ブルガリア代表戦でボスニア・ヘルツェゴビナA代表デビュー。2010年3月3日の親善試合・ガーナ戦で代表初ゴールを記録。
プレースタイル
広い視野と正確な判断から繰り出す長短のパス、高い精度を誇るフリーキックを武器とするミッドフィールダー。
キャリア当初はスピードやドリブル突破を生かしたシャドーストライカーであったが、テクニックの上達にしたがって正確な判断でパスを供給する司令塔タイプの選手となった。ローマでは攻撃的なチームスタイルの中で、ドリブル技術やパスセンス、ミドルシュートなどの能力を発揮しフランチェスコ・トッティに次ぐ攻撃の中心としてプレーした。ユヴェントス移籍後はマッシミリアーノ・アッレグリにより中盤の底に配置されると、ボール奪取やドリブル突破は他の選手に任せて前線やサイドにミドルパスを供給するプレイメイカー、アンドレア・ピルロに代わるレジスタとしてプレーしている。またピャニッチ自身も目標としてきた選手としてピルロを挙げている。
パス能力に関して2018年8月18日のキエーヴォ戦で両チームトップのボールタッチ116回とパス成功率90.4%、同年9月1日のパルマ戦ではパス成功率100%を記録するなど、2018-19シーズン前半戦のデータで1試合平均65.8本のパスとパス成功率89.5%、1試合平均2.2本のキーパスと5.2本のロングパス成功を記録。UEFAチャンピオンズリーグ 2018-19シーズンでも全595本のパスを成功させ全体5位となる成功率89%を記録するなど、データ面からも世界屈指のパサーであると評価されている。
フリーキックはスピードがあり落差の大きなゴールキーパーの対処しにくい球筋が特徴であり、また無回転のボールも蹴ることができる。2013-14シーズンから2015年11月までの2シーズン強で直接フリーキック38本中7本でゴールを決め、ヨーロッパ5大リーグで1位となる成功率18.4%を記録した。その後やや数字を落とし、同じく2013-14シーズンから2018年1月まででは76本に対し成功11本、成功率14.47%で全体12位となった。ユヴェントスでは左サイドからのフリーキックの場合ピャニッチ、右サイドからの場合パウロ・ディバラがキッカーを務めていたが、クリスティアーノ・ロナウド加入後は序列が下がり3番手のキッカーとなった。
人物
ムスリムである。ニース出身の妻との間に息子が1人いる。
その出自や経歴からボスニア語、ルクセンブルク語、フランス語、イタリア語、ドイツ語の5カ国語を話すことができる。引用元:wikipedia
2021年1月31日