中村 俊輔

所属
前所属先 ジュビロ磐田
背番号 10
ポジション MF
生年月日 1978年06月24日(45歳)
身長 / 体重 178cm / 71kg
出身地 神奈川

中村 俊輔の情報

中村 俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - )は、神奈川県横浜市戸塚区出身の日本のプロサッカー選手である。ポジションはミッドフィールダー。J1リーグ・横浜FC所属。元日本代表。

2000年と2013年にJリーグMVPを獲得。Jリーグ史上初のMVP複数回受賞者。ほかにアジアカップ2004MVP、2006-07スコティッシュ・プレミアリーグMVPなどの受賞歴がある。

来歴

プロ入り前
横浜市瀬谷区で男4兄弟の四男として生まれた。俊輔の名前は母親が命名した。3歳でサッカーボールを蹴りだした。4歳の時、一家は横浜市戸塚区に引っ越した。幼稚園の体操教室では古沼貞雄にも教えを受けた若林可夫の指導を受けた。1985年、深園FCに入団し、サッカーを始める。1991年4月横浜市立深谷中学校に入学、倍率50倍のセレクションに合格し日産(1993年から横浜マリノス)のジュニアユースに所属し、2度の全国制覇を経験したが、ユースへの昇格が出来ず、1994年に桐光学園高校へ進学しサッカー部に入部、1年生次には雑用も経験した。2年生次には第74回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、3年生次には第75回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝を果たした。

横浜マリノス時代
1997年、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)に加入する。マリノスにおいて最初の2シーズンの背番号は25番だった。1997年シーズンのJリーグ優秀新人賞を受賞した。

1999年のシーズンから、10番に背番号を変更した。またこのシーズンにはJリーグベストイレブンを初受賞する。

2000年のシーズンは、22歳でJリーグ最優秀選手賞、日本年間最優秀選手賞を受賞した。Jリーグ最優秀選手賞受賞者の中では最年少である。

レッジーナ時代 
2002年5月、2002 FIFAワールドカップ日本代表への招集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した。ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエAのレッジーナに移籍、レギュラーを確保しプレースキッカーを任され、7得点をあげてセリエA残留に貢献した。

2003年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で、3得点をあげ『ブロンズシューズ賞』を受賞。2003シーズンは出来うる限り代表戦に出場したがコンディションを崩してしまったこと故障を繰り返したことが響いてリーグ戦出場は激減してしまった。

2004年2月、横浜マリノス時代のチームメート奥大介の夫人・佐伯日菜子(当時)の紹介で知り合ったタレント経験のある元ペットショップ店員と結婚。同年7月、8月に行われたアジアカップ中国大会では、最優秀選手に選ばれた。

セリエA3年目となる2004-2005シーズンは、終盤数戦こそ恥骨炎や膝の負傷などで途中出場があったがほぼスターティングメンバーとして戦いクラブ創設以来の最高順位に貢献。2005年3月にはガゼッタ・デロ・スポルトからレジーナの歴代ベストイレブンに選出された。同年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2005で、1得点2アシストをあげベストイレブンに選出。セルティックFCの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった。

セルティック時代
セリエAで3年間プレーした後、2005年7月に、スコティッシュ・プレミアリーグ(SPL)(UEFAヨーロッパリーグランキング10位)の2強の一角であるセルティックへ移籍(移籍金は推定250万ポンド、約4億9000万円)。リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。

2006年9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場する。グループリーグ第1戦、オールド・トラッフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦でフリーキックによる得点をあげ、UEFAチャンピオンズカップからUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもFKから得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初、日本人選手としても初めての快挙である。2006年10月14日、ダンディー・ユナイテッド戦で海外リーグ戦における自身初のハットトリックを決めた。

2007年4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞 も獲得した。アジア人の選手による欧州リーグでのMVP獲得は初となる快挙でもあった。

エスパニョール時代
2009年6月22日、横浜F・マリノスなどのオファーを断り、スペイン1部リーグのRCDエスパニョールへの移籍が決定した。Goal.comが報じたところによると、「日本人ミッドフィルダーには大きな期待が寄せられたが、スペインでの最初のシーズンはうまくはいかなかった」。マウリシオ・ポチェッティーノ監督は中村がエスパニョールで本来のプレーをすることができなかった理由として、「適応」(西: adaptación)を挙げた。セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否、代理人が説得へ向かうも中村が拒否したことで、エスパニョールに残留することとなった。2010年2月28日、かつて所属した横浜F・マリノスに移籍が決まった。

横浜F・マリノス時代(第2期)
2002年以来のJリーグ復帰となったこの2010年シーズンでは、リーグ戦全34試合のうち32試合に出場を果たした。

2011年1月25日、チームは中村俊輔のキャプテン就任を発表し、本人はその中でキャプテン就任について「光栄な事」と語った。3月29日、東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!にドラガン・ストイコビッチ率いるJリーグ TEAM AS ONEの一員として参加した。

2013年は自身初のリーグ年間2桁得点を記録、またJ1第30節大分戦では通算17点目となる直接フリーキックを決め、遠藤保仁が持っていたJ1のフリーキック最多得点記録を更新。しかし、11月に胆のう炎で入院し一時チームを離脱。1週間後に退院するも、その後チームは失速し9年ぶりのJリーグ優勝を逃してしまった。それでも、その年のJリーグアウォーズでは史上初の2度目のそして2016年現在最年長でのMVPを受賞した。この受賞について、古巣セルティックからも公式ホームページを通じて祝福のコメントが送られた。

2015年1月、5季連続となる主将への就任が決まった。2月16日に左足首の手術を受け、同月20日に退院。その後4月22日に今季公式戦に初出場を果たすも、5月には肉離れで再離脱となった。7月19日のガンバ大阪戦で今季はじめてフル出場。同試合で直接フリーキックを決め、J1直接フリーキック得点ランキング単独1位に躍り出た。このゴールは7月の月間ベストゴールに選ばれた他、イギリスメディアからも称賛された。その後、8月29日の浦和戦、10月3日の仙台戦でも直接フリーキックを決め、日本代表に選出されているG大阪の東口順昭、浦和の西川周作、仙台の六反勇治と現役日本代表GK全てから得点を決めている。

2016年1月、クラブ史上最長の6季連続となる主将就任が決まった。開幕戦はインフルエンザの発症により欠場するも、第2節の福岡戦で初出場し、直接フリーキックを決めた。その一方、シティ・フットボール・グループの意向が強く反映され、中澤佑二や栗原勇蔵といった多くの功労者に対して減俸・あるいは戦力外という判断を下したマリノスの強化方針への不信感が強まり、シーズン終了後には「マリノス退団へ」との報道も飛び交った。年末には、かつて共に日本代表で戦った名波浩率いるジュビロ磐田と移籍を視野に交渉した。

ジュビロ磐田時代
2017年1月7日夜、共同通信社が速報で磐田との大筋契約合意を伝え、1月8日に両クラブから正式に発表された。横浜FMからは年俸1億2000万円の提示を受けていたが「サッカーだけに向き合い、燃え尽きたい」と8000万円を提示した磐田への移籍を決めた。横浜FM側から見ればこの移籍による損失は大きく、公式サイトで声明を出すまでに至っている。開幕戦のC大阪戦からスタメンでフル出場し、その試合の走行距離は両チーム合わせて一番だった。3月11日に行われた第3節の大宮アルディージャ戦で移籍後初の得点を得意のフリーキックで決めた。4月1日、第5節の清水エスパルス戦では初の静岡ダービーに挑み、3得点に絡む活躍で勝利に貢献した。最終的には、シーズン30試合5得点を挙げ、昨季13位で残留争いをしていたチームを6位でシーズンを終えるなど加入一年目からチームの中心選手として活躍した。

2018年シーズン序盤は、レギュラーとして出場するも右足の怪我の影響で6月に手術を行った。9月頃から復帰を果たすもリーグ戦16試合の出場となり、Jリーグで自身初めてとなる無得点でシーズンを終えた。J1参入プレーオフ終了後、同シーズン限りで磐田との契約が切れることを明かし、来季の動向について明言しなかった。12月14日、『スポーツパラダイス』に磐田の名波監督が出演し、クラブとしてオファーを提示していることを明かした。

2019年1月9日、磐田残留が報じられ、1月12日、加入後3年目となる2019年シーズンも背番号10を背負い、磐田でプレーすることが明らかになった。また、40歳は2019年シーズンJ1最年長となる。開幕戦の松本山雅FCとの試合にスタメン出場するも、その後は怪我の影響もあり、移籍が決定した7月まででリーグ戦2試合のみの出場となった。

横浜FC時代 
2019年7月11日、横浜FCに移籍することが発表された。自身初のJ2リーグでのプレーとなる。7月31日の第25節・レノファ山口戦で移籍後初出場を果たし、10月27日の第38節東京ヴェルディ戦で移籍後初ゴールを決めた。この得点は、J2の「10月度ベストゴール」に選出された。怪我の影響もあり、デビュー戦後は欠場する試合もあったものの10試合に出場し、チームのJ1昇格に貢献した。

2020年シーズンは、2月23日に行われたヴィッセル神戸戦で開幕スタメンに名を連ねた。神戸に元スペイン代表のアンドレス・イニエスタが所属してる事もありメディアから注目され、中村とイニエスタが対戦したのは2007-08シーズンにセルティックとバルセロナがCLで戦って以来13年ぶりとなった。

日本代表時代

1996年、AFCユース選手権1996の日本代表に選出され、6試合に出場しカタール戦では1得点を決めた。

1997年、1997 FIFAワールドユース選手権に出場し、コスタリカ戦で1得点を決めた。

1998年初頭にはフル代表合宿に初参加した。2月15日のオーストラリア戦で岡田武史が監督を務めるフル代表に初招集されたが、このときは試合に出場することはできなかった。同年12月にはアジア大会U-23日本代表に選出され、クウェート戦で1得点を決めた。

1999年、シドニーオリンピック予選では司令塔に抜擢された。 11月6日、五輪出場へ王手をかけたホーム国立競技場で行われたカザフスタン戦では、1ゴール1アシストの活躍で3-1の勝利に貢献。全ゴールに絡み、自身直接FKによる3点目の追加点を叩き込み、勝利を確実なものとした。

2000年、U-23代表に選出され、シドニーオリンピックにて4試合に先発出場した。2月13日には、AFCアジアカップ2000 (予選) のシンガポール戦でフル代表として初出場し、同月16日にブルネイ戦にてフル代表初得点を決める。アジアカップ本戦では優勝とベストイレブンを受賞した。

2001年、3月24日のスタッド・ドゥ・フランスで行われたフランス代表戦に先発出場するも、当時の世界王者を相手に0-5で大敗する衝撃的なゲームとなり、前半のみの出場で終わる。さらに所属する横浜FMが残留争いに巻き込まれた影響もあり、代表の招集から遠ざかり、年内最後のイタリア戦には召集されるも、ベンチのまま出場できずに終わった。

2002年2月には東京、渋谷の東急東横店壁面への日本代表オフィシャル・ユニフォーム、巨大広告に起用されるなど、2002 FIFAワールドカップ日本代表への招集が有力視されていたが、5月、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した。

しかし、ジーコが代表監督になると、再び招集され2003年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で、3得点をあげ『ブロンズシュー賞』を受賞した。

AFCアジアカップ2004では、決勝戦において日本の全3得点に絡み、最優秀選手に選ばれた。

2005年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2005で、1得点 をあげベストイレブンに選出。セルティックの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった。

2006年6月、2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。中村は、当時の代表監督ジーコに中心選手として重要視され、グループリーグ全3試合にフル出場したが、2敗1分で敗退した。第1戦のオーストラリア戦での得点が、自身のW杯における唯一の得点となった。

2007年3月24日、キリンチャレンジカップ・ペルー戦は、オシムジャパン発足してからの初選出となり、2アシストで勝利に貢献した。

南アフリカで行われた2010 FIFAワールドカップでは、グループリーグ第2戦の対オランダ戦において64分から途中出場するにとどまった 。2010年7月1日には、このワールドカップを最後に日本代表を引退する意思を表明した。

プレースタイル

プレースキックの名手とされており、特に直接フリーキックを得意としている。ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込み、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜く、独特のフォーム(画像を参照)である。元々は大きく弧を描くキックを得意としていたが、レッジーナ移籍以降はスピードに重点を置いたキックを多用する。そのため、通常の選手はカーブフリーキックの球は90km/hほどだが、中村は100km/hのボールを蹴ることができる。

プロサッカー関係者の評価

レッジーナ時代には、監督のマッツァーリは「ナカムラはバッジョのようなもので、FWもできるし、MFもできる。素質のある選手はDFを抜くこともパスも出せるんだ」と評した。プランデッリは中村について「創造性があって、相手をかわす能力を持った選手だ」と評した。

セルティック時代には、契約した数日後に参加した練習でFKをどの選手が蹴るかのコンテストがあり、そこで10本中10得点を決めてFKキッカーを任されるようになった。指揮官であるストラカンは「彼は天才だ」という言葉を残し、巷でタックルができない選手だと批判されていることについて異議を唱えた。チームメイトであったドナーティは「ナカは技術面ではチームでナンバー1だ。他にもマクギーディやブラウンら上手い選手はいるけど、ナカは別格」と述べている。

エスパニョールでチームメイトであったデ・ラ・ペーニャは「ナカはチーム内で一番技術が高い選手だ」と述べた。

元日本代表監督であったフィリップ・トルシエは2010年5月、守備能力を考えた場合、中村をW杯で起用しないことも検討するべきとコメントした。

パヴェル・ネドヴェドはインタビューにて日本人選手について問われた際、中村のテクニックを称賛している。

本田圭佑は2009年9月5日のオランダとの親善試合(オランダ・エンスヘデ)の後半18分に、FKキッカーをめぐり、当時絶対的な存在だった中村と衝突したが、「後にも先にも、シュンさんよりFKがうまいと思ったことは一度もない。ただ、あの時は蹴りたかったから主張した」と述べている。

ヨシップ・イリチッチはセットプレーにおいて影響を受けた選手を問われた際、「セルティックにいたナカムラだ。彼は世界一だよ」と述べた。

スポーツ科学の見地から

筑波大学体育専門学群教授の浅井武(サッカー方法論)は、中村がフリーキックで蹴る「カーブシュート」の回転速度は毎秒7.5回転程度、ボールのスピードは時速99.7~101キロで(これは世界有数の高速だという。)、25メートル飛ぶ間に横に3メートル以上曲がるとみる。また、ボールの回転軸が斜めであるため、ゴール付近で急激に落ちる軌道になるという。浅井は「中村は体を傾け、全身のバネを使って、大きなパワーを生み出している」とも言う。

また、ボールが無回転で揺れる、いわゆる「ブレ球」のシュートを打つことがある。浅井は一般的な「ブレ玉」の蹴り方として、(1)ボールの中心をける(2)足を押し出すようにける(並進運動)(3)強くける(時速72キロ以上)の3点を挙げるが、名古屋大学総合保健体育科学センター体育科学部准教授の布目寛幸(スポーツ科学, スポーツバイオメカニクス)は、中村と本田圭佑の蹴り方を比較分析した上、中村の「ブレ玉」の蹴り方について「本田より内側(インサイド寄り)の得意とする部分でけっている。それ以外の原理は同じだ。」と指摘した。

ピッチに入り乱れる選手の位置を瞬時に把握し、的確なプレーにつなげるには、「スポーツビジョン」(スポーツに必要な視力)と視野の広さが必要と言われる。その中でもサッカーでは、わずかなスペースを見つける能力である深視力の重要性が指摘されている。スポーツビジョン研究会代表の真下一策は、「選手の位置関係を立体的に認識するのが深視力。日本代表らJリーグのトップ選手と、それ以外の選手を比較すると、深視力だけが、最も開きがあった。」「糸を引くようなパスを次々通す人は、位置関係を俯瞰できる能力にたけている。」と述べ、また中村の深視力について過去に中村を指導した経験を持つ浦和アカデミーセンターコーチの池田誠剛は、「シュンは深視力の数値が良かった。」と証言している。

その他

中村のフリーキックは世界的にも評価が高く、海外メディアが選出する名キッカーのランキングにも度々選出されている。またコンピュータゲームにおいても能力値は概ね高く設定されており、15,000人以上の選手が実名で登場する『FIFA 17』ではフリーキック能力値9位となっている。

2020年1月に放送されたスポーツバラエティ番組『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日)では、サッカーボールでは無くラグビーボールでいつものスタイルで蹴り、25mの距離にある直径70cmの的に一発で当てた。これについて英新聞『Scottish Sun』は、「セルティックの英雄である中村がラグビーボールで的にヒットさせる驚愕のテクニックを披露」と取り上げた。

2020年4月、イギリスメディアの選ぶ21世紀の日本代表ベスト11に選ばれた。

人物

2004年に一般女性と結婚し、子どもが5人(息子4人、娘1人)いる。2012年には日本メンズファッション協会からベストファーザー賞に選ばれている。

代表のチームメイトである、中澤佑二や遠藤保仁と仲が良い。かつてチームメイトだった川口能活を「師匠のような存在」と慕っている。解説者の中西哲生と親交がある。

引用元:wikipedia

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