所属 | インテル |
---|---|
背番号 | 13 |
ポジション | DF |
生年月日 | 1988年02月16日(36歳) |
身長 / 体重 | 195cm / 81kg |
国籍 | イタリア |
所属 | インテル |
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背番号 | 13 |
ポジション | DF |
生年月日 | 1988年02月16日(36歳) |
身長 / 体重 | 195cm / 81kg |
国籍 | イタリア |
アンドレア・ラノッキア(Andrea Ranocchia、1988年2月16日- )は、イタリア・アッシジ出身のサッカー選手。インテルナツィオナーレ・ミラノ所属。ポジションはDF。
経歴
キャリア初期
ACバスティーア1924で競技生活を開始し、1998年にペルージャ・カルチョへ加入。ペルージャの破産に伴い、2004年に当時セリエBのUSアレッツォに移籍。2005-06シーズンはユースチームに所属し、カンピオナート・プリマヴェーラでプレーした。翌シーズンにトップチームでのデビューを果たすも、チームはセリエC1に降格した。
バーリ
2008年8月、ジェノアCFCが共同保有権を取得し、セリエBのASバーリへレンタル移籍。翌2009年夏、ジェノアはラノッキアの共同保有権を買い上げたうえで、2009-10シーズンもバーリにレンタルした。レオナルド・ボヌッチと共に強固なディフェンスラインを構築し、A代表入りも期待されたが2010年1月に膝を負傷してシーズン後半を棒に振り、2010 FIFAワールドカップ出場はならなかった。なお2012年8月には、2008-09シーズンのサレルニターナ・カルチョ戦で起きたとされる八百長事件について事情聴取を受けている。
ジェノア
2010年夏、レンタル元のジェノアに復帰。同時にインテルがジェノアから共同保有権を取得し、5年契約を結んだ。当初は2010-11シーズンはジェノアCFCでプレーすることになっていたが、インテルのCBワルテル・サムエルが怪我によりシーズン絶望となったことから、12月27日にインテルに完全移籍し、年明けの1月からインテルでプレーすることになった。共同保有権の買い取りにあたり、インテルはジェノアに1250万ユーロを支払った。
インテル
2011年1月9日のカルチョ・カターニア戦でインテルデビュー。加入直後からレギュラーに定着し、2月19日のカリアリ・カルチョ戦でインテルでの初得点を決めた。2年目の2011-12シーズンの開幕前には退団したマルコ・マテラッツィの背番号23を受け継いだ。しかし、数度に渡る怪我(肉離れ)の影響もあり、不安定なパフォーマンスに終始。11試合の先発出場にとどまった。
2014-15シーズンからは引退したハビエル・サネッティの後継として新キャプテンに就任したが、不安定なパフォーマンスに終始。翌2015-16シーズンにはマウロ・イカルディにキャプテンマークを譲り、新加入のミランダとジェイソン・ムリージョにポジションを奪われ出場機会を失った。
サンプドリア
2016年1月、UCサンプドリアへ半年間のレンタル移籍が決定。加入直後には失点に関与するミスもあったが、最終的にはポジションを掴み13試合に出場した。
ハル・シティ
2017年1月31日、プレミアリーグのハル・シティAFCへシーズン終了までのレンタル契約で移籍。これが自身初の国外移籍となった。2月1日のマンチェスター・ユナイテッドFC戦でプレミアリーグデビューを果たし、2月4日のリヴァプールFC戦ではハルの2点目をアシストし勝利に貢献した。
インテル復帰
2017年7月、ハル・シティへのレンタル期間が終了しインテルへ復帰。再び新天地を求め退団を希望したが、ルチアーノ・スパレッティが監督に就任したため残留を決意。
代表歴
U-20、U-21イタリア代表に選出されており、北京オリンピック代表の候補にも挙がった。2010年11月16日のルーマニアとの親善試合でA代表デビューを果たした。EURO2012では、ケガの影響により最終段階でメンバーから外れ、本大会出場はならなかった。
プレースタイル
2m近い長身を活かしての空中戦を得意とする大型センターバック。大柄な体格とは裏腹に、スピードや足元の技術にも優れる。同国人のアレッサンドロ・ネスタの後継者としてネスタ本人からも期待されていた。引用元:wikipedia
2021年1月31日